大阪府文化財センター

並松町遺跡(なみまつちょういせき)

平成24年1月24日UP


 11月より紀州街道の東側部分の調査に着手しています。造成土などの盛土を除去した面で、井戸や土坑・溝を検出しています。土坑はごみなどを廃棄したゴミ穴で、陶磁器や瓦類、貝殻などが多くみつかっています。(写真上部を左右に横切る道路が紀州街道です)(平成23年12月28日)

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瓜破北遺跡(うりわりきたいせき)


 弥生時代後期~古墳時代後期の遺構面より下の地層から、サヌカイトの石器・剥片・砕片がまとまって出土しました。石器の出土状況を詳しく観察したところ、石器は2つの地層に含まれていることがわかりました。このうち、上の地層には縄文時代の石鏃が含まれており、縄文時代の石器と思われます。また、下の地層から出土した石器にはナイフ形石器が2点含まれており、旧石器時代に属する可能性が高いと考えられます。(平成24年1月19日)

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久宝寺遺跡(きゅうほうじいせき)


 古墳時代前期の溝や土坑などの遺構が見つかりました。その中の63土坑(写真上)は直径約2m、深さ0.7mで、中から高杯や甕など多くの土器が出土しています。
 この土坑の埋土を洗浄したところ、多量の種実(写真下)が見つかりました。これらの種実は、専門家による鑑定で種類がわかると、当時の周辺環境や、人々の食生活などがわかります。(平成24年1月6日)

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・ 資料・データ>現地説明会資料(PDF)>久宝寺遺跡現地公開資料(2003/05/24)


池内遺跡(いけうちいせき)


 調査区の南側では、平安時代から鎌倉時代頃の溝や柱を立てた穴などを確認しました。写真は北から撮影したものです。
溝の中には、水を流すものではなく、区画の目的として掘られたと思われるものもあり、居住域を区画したものと考えています。(平成23年12月28日)

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池内遺跡の発掘調査II(2007/01/27)
池内遺跡の発掘調査(2006/01/21)


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並松町遺跡(なみまつちょういせき)

平成24年1月12日UP


 並松町遺跡は、堺市堺区並松町付近にある遺跡です。阪神高速大和川線建設に伴う調査で、今までに紀州街道の西側と街道部分の現地調査を終了しています。11月より街道の東側部分の調査に着手しており、造成などの盛土を除去した面で、井戸や土坑、溝が多く検出されています。(11月)

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瓜破北遺跡(うりわりきたいせき)


 瓜破北遺跡は、大阪市平野区にある遺跡で、府営瓜破西住宅の建て替えに伴って発掘調査をおこなっています。今回の調査区では、弥生時代後期の井戸などが見つかりました。この遺跡では、過去の調査で弥生時代後期の集落跡が確認されています。遺構・遺物の分布状態からみて、今回の調査区はその集落の南東端にあたると考えられます。(11月)

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大県郡条里遺跡(おおがたぐんじょうりいせき)

平成23年12月27日UP


 大県郡条里遺跡では、これまでに紹介しました調査区に続き、南側の調査区も始まりました。ここでも、北側の調査区同様に中世後半の畠を検出しました。畝には人の足跡が残っていました。
後ろに走っているのは近鉄電車です。(平成23年12月)

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 前回に紹介しました、中世後半の遺構面は、調査区全域が畠でしたが、その下層で検出しました、同じく中世後半の遺構面では、水田と畠を検出しました。水田は洪水砂で覆われており、水田には多数の足跡が見られます。耕作地は11m前後の間隔で南北方向のアゼで区画されており、1坪を東西に10分割していたと考えられます。現在は12世紀頃の水田を調査していますが、同様の区画であることがわかりました。(11月)

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 大県郡条里遺跡の中世後半の遺構面では、幅約50cmの南北方向の平行する溝を検出しました。これは畠の畝間の溝です。
現在、南側に隣接する調査区でも同じ遺構面の調査を行っていますが、同様に畝間溝を検出しており、この付近一帯が中世では、畠として利用されていたことがわかりました。(11月)

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 大県郡条里遺跡は、柏原市法善寺町付近に広がる遺跡です。写真は、調査区を上空(北から)みた様子です。東には生駒山地、西には旧大和川の支流である玉串川が位置しており、遺跡の西側には恩智川が流れています。調査地の周囲には正方形に区画された田畑が広がります。これは、古代以降の土地の区画である条里型地割の名残りです。(11月)

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鬼虎川遺跡(きとらがわいせき)

平成23年12月16日UP


 鬼虎川遺跡は、東大阪市宝町付近に広がる、弥生時代を中心とする有名な遺跡です。現地表面下、約4mの弥生時代中期(Ⅱ~Ⅲ様式)の遺構面から溝、土坑、柱穴(柱根が残るものあり)を検出しています。また、土器・石器等も多く出土しています。(平成23年9月)

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久宝寺遺跡(きゅうほうじいせき)

平成23年12月16日UP


 久宝寺遺跡では、古墳時代前期の水田を検出しました。水田は流路の氾濫により運ばれた砂層で覆われていたため、畦畔が良い状態で残っていました。左上の写真は、畦畔を見つけた時の状況です。右上の写真は、畦畔が砂に覆われて埋没したのがわかります。(平成23年9月)

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・ 資料・データ>現地説明会資料(PDF)>久宝寺遺跡現地公開資料(2003/05/24)


池内遺跡(いけうちいせき)

平成23年12月16日UP


 池内遺跡は、松原市天美北および天美東に広がる遺跡です。これまでに実施した発掘調査により、弥生時代から中世に至る遺構や遺物が確認されています。
 調査では、室町時代の水田や、平安時代から鎌倉時代頃の集落を確認しました。集落の調査では、柱を立てた穴や畑の跡のほか、轍(わだち)と思われる細い溝状の遺構も検出しています。(平成23年9月)

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花屋敷遺跡(はなやしきいせき)

平成23年11月10日UP


 花屋敷遺跡は、東大阪市花園(近鉄河内花園駅の北側)に広がる遺跡です。これまでにも中世の集落跡が確認されていましたが、平成22年度の調査では、集落内に掘られた土坑から、埋納銭15,382枚が出土しました。銭は中央の孔に紐を通した「さし銭」の状態で納められていたと考えられます。銭種は50種類あり、最も新しい銭は元(げん)銭「至大通宝(初鋳1310年)」です。調査区内からは瓦が多く出土していることから、屋敷あるいは寺院が建てられていた可能性が考えられます。(平成23年11月)

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止々呂美城跡(とどろみじょうあと)

平成23年11月8日UP


 大阪府の北西部、箕面市下止々呂美にある遺跡です。大阪平野の北に横たわる北摂山地に立地しており、最も高いところで標高は230mあります。
写真は、遺跡が立地する山の頂上部分(1区)を調査した時のものです。
土坑などがみつかっており、鎌倉時代後期(13世紀後葉)の瓦器椀などが出土しています。(平成23年11月)

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久宝寺遺跡(きゅうほうじいせき)

平成23年11月8日UP


 八尾市の久宝寺緑地近くにある遺跡です。これまでの調査で弥生時代から中世にかけての遺構や遺物がみつかっています。ちょっと前に調査を行った2区では、現地表面から約4m下で、弥生時代中期の水田を検出しました。
水田は南東から北西(写真右手前から左奥)にゆるやかに下降傾斜しており、大畦畔によって区切られています。大畦畔を境に北側の水田は、南側に比べ約40cm低く造られています。(平成23年11月)

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・ 資料・データ>現地説明会資料(PDF)> 久宝寺遺跡現地公開資料(2003/05/24)


西の庄東遺跡(にしのしょうひがしいせき)

平成23年11月8日UP


 吹田市西の庄付近にある遺跡です。調査地は、アサヒビール吹田工場とJR東海道線や貨物の線路にはさまれた、狭い部分にあります。近~現代の土地改変が著しく、深さの浅い遺構は既に削平されているようですが、幅約6.5m深さ約1.6mを測る大溝を検出しています。大溝はほぼ東西に軸をとるが、調査範囲が狭いため詳細は不明です。大溝内から、瓦質土器が出土していることから14世紀後半~15世紀頃に掘削された可能性が高いと考えられます。(平成23年11月)

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池島・福万寺遺跡(その11)


 9-4面は古代の遺構面で、わずかに蛇行しながらやや西に振りつつ、おおむね南北方向を指向する流路と、南東から北西に流下しながらそれに合流する溝等を検出した。 南北流路の肩部周辺では50cmを超える長さの杭が列状に連なって検出され、護岸に伴って設置されたものとみられる。この流路は古代を通じて継続的に使用されており、 基幹水路の役割を負っていたと考えられる。埋土から馬の下顎骨や土器、木器が出土した。

(平成22年8月20日撮影)

東区9-4面全景(南から)
東区9-4面全景(南から)

東区9-4面検出流路出土遺物(北から)
東区9-4面検出流路出土遺物(北から)


池内遺跡府道その2の調査近況


府道大阪河内長野線建設工事のための調査を平成22年1月から9月に行いました。昨年度実施のその1調査区に続く東西35m、南北200m強の約6500㎡を、6区に分けて調査しました。 北側の09-3-1から3区は府道その1調査区に続いて、古代以前の遺構面を検出しました。なかでも、09-3-1区では古代の蛇行する溝や弥生時代に遡る可能性のある東西大溝(写真1)がみつかり、 その周辺からは弥生時代中期の打製石剣(写真2)や石庖丁が検出されました。2月初旬にこれらの調査成果を近隣の方対象に現地公開を行い、200名弱の参加を得ました。 南東部では、現在の上之池の前身と思われる池状遺構を部分的に検出しました。南側の09-3-4から6区では近世の水路から漆器碗や軒丸瓦などがみつかりました。 また、最終遺構面では鎌倉時代(13世紀)の遺構・遺物を検出しました。区画溝と思われる東西大溝(写真3)や牛や人の足跡などの人間の生活痕跡を検出しました。(平成22年8月) 写真1
写真1

写真2
写真2

写真3
写真3
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池島・福万寺遺跡の調査


 現在、弥生時代中期後半(紀元前後)の面を調査しています。一回の激しい洪水で埋まった面ですが、流路や水田、用水路の跡などが見つかりました。 当時の水田はわずかな起伏を見せる自然地形に合わせて区画されています。洪水による破壊や浸蝕の痕もあり、当時の自然と人との関係を感じる事ができます。 また、下の層を観察する筋掘りトレンチでは弥生時代前期末頃の壺などが出土し、下のほうにもまだ色々とありそうです。 西半12-2面(南から)
西半12-2面(南から)中央を蛇行しながら奥に流れていくのが自然流路、高台には水田が残る。流路から右に洪水が岸辺を破壊して流れ出ていた浸蝕の痕。

筋掘りトレンチ出土の弥生時代前期末頃の壺
筋掘りトレンチ出土の弥生時代前期末頃の壺。穴などに埋められた痕跡もなく、14面という遺構面の上に立っているような状態。洪水で流れてきてここで沈んだのか?


池島・福万寺遺跡


 上側の写真は、弥生時代前期(今から約2300年前)の木製品水漬け遺構の完掘状況です。 溝の底に一辺1.0~1.8m、深さ0.6~0.9mの隅丸方形の穴を掘り、平鍬、斧の柄、竪杵、鍬の未成品などの木製品を貯蔵していました。 下側の写真は、木製品と未成品が出土している状況の写真です。

(平成22年06月24日、平成22年06月17日撮影)

弥生時代前期の木製品水漬け遺構の完掘状況 木製品と未成品が出土している状況
 


池島・福万寺遺跡


 上の写真は、奈良時代中頃、流路にたくさんの杭を打ち込んで坪境に沿って付け替えた跡です。当遺跡での条里制地割の始まりを示す資料です。 下の写真は、弥生時代後期の水田跡です。手前側にアゼで小さく区画された水田が広がり、その奥は微高地が広がります。微高地の裾に沿って2~3条の流路があります。

(平成22年01月19日、平成22年03月30日撮影)

奈良時代中頃
 


交野市私部南遺跡


 私部南遺跡では、谷へと延びる溝〔写真左〕から、6世紀後半の土器とともに鞴(ふいご)の羽口(はぐち)やスラグが出土しました。 さらに微細な遺物を見つけるため、土を水洗して選別したところ、鍛冶(かじ)作業中にできる鍛造剥片(たんぞうはくへん)が見つかりました。 これらの遺物から、周辺で鍛冶を行っていたと考えられます。 kisabe0701 kisabe0702


八尾市池島・福万寺遺跡


 平安時代頃の水田跡を検出しました。写真左は、調査区南西隅から撮影したものです。手前は洪水によって地面が大きく削り取られたところで、凹凸が目立ちます。 右手に東西方向にのびる幅広の坪境畦畔(つぼざかいけいはん)がみえます。写真右は、調査区北東部分で検出した水田です。 東西・南北にのびる畦畔(あぜ)がきれいに残っていました。 ikeshima080101 ikeshima080102


東大阪市池島・福万寺遺跡


弥生時代中期後葉(今から約2100年前)頃の地表面です。写真左から、調査区の西側〔向かって右〕の南北方向にはしる流路と、堤を挟んで水田の広がっていた様子がわかります。 写真右では、堰(せき)と水路の関係がよくわかります。堰は洪水によって壊されてしまい、痕跡だけが残っていました〔向かって左、茶色い砂地の中の白○線〕。 堰き止められた水は、あふれて右側の水路に流れていたと考えられます。 ikeshima080201 ikeshima080202


八尾市池島・福万寺遺跡


 中世(戦国時代頃)の水田の様子です。黒っぽい土の水田の中に、幅広の帯状に茶色い島畠がのびています。 島畠は水田に流れ込んだ土砂を集めて盛り上げたもので、周りの水田とは異なって乾燥するため、蕎麦や綿等の畠作が行われました。 並行する細い白線は水田の畦畔(あぜ)で、島畠と同じ方向にのびていることから、ここでは南北方向に細長く土地区画されていたことがわかります。 ikeshima0901 ikeshima0902


松原市三宅西遺跡


 三宅西遺跡では、縄文時代から室町時代の遺構や遺物が見つかっていますが、特に古墳時代中期のものが集中します。 写真右は、南東から北西に向けてまっすぐに掘られた大溝の底から須恵器(すえき)の杯蓋(つきふた)が出土した様子です。 写真左のように、溝の周辺では建物の柱穴や土坑も見つかっていることから、以前、北側で検出した集落が続いていたものと考えられます。 miyake01 miyake02


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